よしなしごと

気持ちの言語化ってだいじだよね

闇の中で

お題「最近ドキドキしたこと」

 

つい先日のことである。夜眠りにつこうとベッドに入りスマホも枕元に置き室内の照明を常夜灯へと切り替えた。真っ暗な方が深く眠れるという人も多いようだが、私は子供のころから真っ暗闇が嫌いだ。何回か大きな地震を体験していることもあるし、霊感なんてないくせに心霊番組を見ることもできないし、とにかく怖くて嫌なのだ。

 

去年照明器具を新調した。ホームセンターで一番安かった白いプラスチックのカバーがかかったLEDのものである。常夜灯もLEDになったのだがこれが暗い。リモコンの明るさ調整のボタンを押しても私には暗い。安静にして身体を休めなければならないのに気持ちはちょっと不安になりながらベッドに横になりぼんやりと明かりの方を眺める。

黒っぽい何かが白いカバーの向こうで動いた。この季節、氷点下の外の世界から暖を求めてカメムシが家の中に入り込んでくるのはいつものことだ。照明器具に入り込んで出られなくなりブンブンバチバチもがいて当たってやがて静かになり、忘れた頃の大掃除で発見されこちらは悲鳴を上げる。毎年恒例。新しく替えてもやっぱり隙間はできるのか。

また黒い影が動いた。「カメムシでは・・・ない?」

照明器具の中で5~6センチくらい、細長くて、長いひげがあって、節があるのだろうかちょっと体を揺らしながらカサカサと照明器具の中を静かに行ったり来たりしている。やみくもに飛び回って壁に体当たりするカメムシとは大きさも形も動き方も違う。このあたりにはほとんどいないとされているゴキブリとも様子が違う。私が知ってるムカデとかの類とも形が全然違う、得体のしれない生物がプラスチックの壁越しにすぐそばにいることに恐怖を覚えた。私の虫事典にはこんな虫載ってない。虫じゃないものに例えるならシャコエビだけど仮にもそんなものが迷い込んだらそれもまた恐怖。

照明の明るさが変わったら動きが変わるかもしれない。そもそも暗闇での私の見間違いかもしれない。部屋の照明を全開まで明るくしてそしてまた常夜灯に切り替えた。カサカサカサ・・・やっぱり、いる。こうなるともう下手に刺激して外に飛び出してきても困るので、そのまま放っておくことにした。明日家族に話して見てもらおう。

 

朝になった。ネタとしても一級品のこの話題を私は家族に話し忘れた。再び寝室の照明を常夜灯に変えた時にちょっと思い出したけどあの謎の生物は姿を現さなかった。

照明器具という檻から脱出して部屋の中、見上げた天井、枕元、自分の手が触れる場所にいたらと思うとそれもまた恐怖なのだが、数日経つもそれも見つからず。

実家に立ち寄った折、幼少期昆虫博士と呼ばれていたという父に心当たりを聞いてみたが、父が提示した虫たちとも姿かたちが一致しない。

 

夢、だったのだろうか。

だとすれば今年の初夢だ。

 

 

写真

お題「何をしているときが一番楽しい?」

 

写真が苦手だ。顔も体型もとにかく自分の容姿に自信がないので、修学旅行のカメラマンからはできるだけ避けて歩き、今もスマホに自分の写真はない。

 

お題に反して嫌いなことを紹介したところでやっと最近ちょっと気持ちいいと思ってることを披露する。

 

10年ほど前からとある楽器のレッスンに通っている。大人の楽器レッスンはコースにもよるが、将来のためのスキル修得ではなく自己満足やストレス解消のためにあったりする。仕事が忙しくて自宅練習できなかった時も講師の先生に怒られることはないし(呆れられたことは何度かある)、弾いているより仕事や家庭の愚痴をこぼしてる時間が長かった日もある。

 

そんな三歩進んで二歩下がるみたいなレッスンを繰り返してるが、運営する音楽教室は区切りとして発表会を年に何回か催す。それは子供たちの発表会と同日に別枠として開催されることも多く、身に余る市民会館大ホールみたいなところを借りて、終演後には出演者みんなが並んで記念写真を撮ったりする。この発表会の集合写真撮影が毎回ちょっと気持ちよくて楽しいのだ。

 

写真撮影はホールのステージ上にその日の出演者が並んで行われることが多い。指定された位置に立ってまっすぐ客席の方を向くとそこにはプロのカメラマンが大きなカメラを抱えていて、アシスタントの方があちこち走り回って小さな箱みたいなものを掲げて何かを測っている。ホールの照明は上から自分たちを照らしている。準備には少し時間がかかるので横に並んだ方とカメラの方をを向いたまま談笑したりしてその時を待つ。

やがてカメラマンの横に据えられた大きなライトも付けられ声がかかる。「はい、撮りまーす」の合図でパシャとシャッターが切られる。最近のスマホや一般用のデジカメからはしない小気味よい音だ。目をつむるひと、眼鏡に光が入る人がいるので写真は何回か撮る。「はい、もう1枚いきまーす」パシャ、「目線こちらでーす」パシャ、「笑顔ももらえますかー」パシャ。モデルの撮影シーンなんかで見かける大きなライトはまぶしくて目がチカチカする。

プロカメラマンの撮影が終わると主催者の記録用デジカメ、出演者の家族のカメラの番だ。あちこちから「次はこちらにお願いしまーす」「目線こっちでーす」。まるで芸能人の制作発表記者会見なのだ。とても気持ちがいい。そのうちこちらも調子に乗ってすまし顔をしてみたり少し口角を上げてほほ笑んでみたり。モデルやアイドルがグラビアを撮られるあの感じ。ちやほやされてる感がたまらなく楽しい。

 

数週間経つとその時撮られた写真が現像され大きく引き伸ばされて手元に届く。

「また太ったな」

一応発表会なので一張羅を着てきちんと化粧しているのだが、やっぱりそこには醜い容姿の自分がいて、ひきつった笑顔を浮かべている。やっぱり写真は苦手だ。

 

誕生日の手紙

お題「今まで貰った中で1番うれしかったもの」

 

私はいわゆる「教育ママ」ではない。小学校入学までは必要なことは日々のあそびから学べばそれで十分だと思っていた。

 

息子が4歳の頃文字を書くことに興味をもった。幼稚園で成長の早い女の子たちがお手紙交換などをしているのを見たのかもしれない。それでも私は無理に文字の書き方を教えることはしなかったので息子は生活の中にあふれている文字の中から簡単そうなものをまねしてカレンダーの裏に書き始めた。

選ばれた文字は「の」と「し」。私の元にカレンダーの切れ端の「手紙」が届いた。

「ののの しし のし のしのし」

 

「かし しか しし」

そうか、「か」も覚えたのか。

 

 

「ママ、誕生日プレゼントは何がいい?」息子にきかれると必ず「手紙を書いて」とリクエストした。「たんじょびおめでと」だけの手紙から、だんだん言葉も増えていった。

 

息子が小学2年生の時、私の33歳の誕生日にはパソコンで打って印刷された手紙を渡された。当時”世界のナベアツ”のネタが大流行していて、ちょうど学校で九九を習ったばかりの息子も家でふざけてモノマネしていた。3の倍数と3の付く数字でアホになって、5の倍数でイヌになるあれである。その時にもらった手紙の最後の一文。

 

「33は3の倍数です。3が2個もつきます。ママはもっとアホになってもいいと思います」

 

ボロボロと涙が出た。長女はまだ小さく、夫は体調を崩して休職と転職を繰り返し、息子は軽度ではあるが発達障害と診断された時期。誰にも頼れず毎日必死だった。きっと笑顔はなくずっと鬼の形相をしていたのだと思う。そうか、私もっとアホになってもいいんだ。だって今年は3の倍数なんだもん。この1年くらいいいじゃない。ていうか、この先30代ずっと年齢に3が付くじゃん。肩の力がすっと抜けた気がした。アホになって「わかりません」「できません」って他人を頼っていいんだ。

 

ちなみにこのあとしばらく「アホ」のまま過ごしたし、今でもちょっと息詰まった時には息子の手紙を思い出してアホになろうとする。3の倍数の歳じゃなくても。

 

もうすぐ息子の誕生日。社会人になって最初の1年を乗り越えようとしている。3の倍数ではないけど3のつく年齢を迎える。あの時の息子みたいな一文は書けないし、うっとうしがられるだろうけど、誕生日にメッセージ送ってみようか。アホになれ。

 

受験生プレイ

お題「受験期の思い出は?」

 

ドラマに出てくる「受験生」に憧れていた。

袢纏を羽織り、目の前には「必勝」と筆で書かれた半紙、夜の深い時間になると母親が温かいココアをおぼんに乗せて部屋をノックする。ココアで一息ついてさあもうひと頑張り。

 

実際には寒い北国の冬にスカスカの袢纏は寒いし、あんな上手に必勝の文字を書けてたら習字の先生あたりを目指してただろうし、自室下のリビングからはバラエティ番組で爆笑する母の声が響き渡ってきた。そもそも現在の自分のレベルを落としさえしなければ何とか合格するであろう進学先を選択していたのでそこまで切羽詰まって深夜まで机にかじりついていなくてもよかった。

 

それでも、「受験生」なんて人生でそうそう体験できるものではない。

 

19時半ごろ夕食を終えるととりあえず布団に入った。私は”深夜”に勉強したいのだ。でも睡眠は大事。母の笑い声も子守唄だ。22時に目覚ましが鳴る。家族全員が入り終えた風呂にゆっくり浸かる。スッキリしたところでコーヒーを淹れる。風呂あがりゆっくり体温が下りてくると眠気が襲ってくるように身体はできているのだからココアなんかで癒されてちゃだめだ。この頃には家族はもうみんな寝静まっていて、理想の勉強環境が整った。ラジオのスイッチを入れる。受験生の応援団と言えば深夜ラジオ。英単語も歴史年号も全然覚えられなかったけどサブカル系の曲には強くなった。目標の職業を「ハガキ職人」に一瞬変えたくなった。

5年近く書道教室に通っていたのに字が下手だったので毛筆の「必勝」は諦めて当時愛読していた芸人のエッセイから一節をボールペンで書いてデスクマットに挟んだ。そばには好きなアイドルのブロマイドを添えて。

午前3時を過ぎると番組によってはラジオの挨拶が「おはようございます」に変わる。私は深夜に勉強したいので「早朝」に切り替わったら勉強は終わり。23時から3時。1日最大4時間。睡眠6時間。さほど勉強してないしたっぷり寝てる。

 

受験勉強はしんどいとか追い込まれるというイメージだが、私は毎日楽しかった。多少形は違えど憧れの受験生を演じられて満足だった。睡眠はちゃんと取っていたし、精神的に安定してたし、一応机には向かって参考書を開いていたからカケラしか覚えてなくてもちりも積もればなんとやらで少しずつ成績は上がっていった。深夜ラジオでいろんな曲に出会えたし、DJからたくさんの言葉と知識を得た。

 

「受験生」として過ごすって実はとても贅沢なことだよね、大人になってそう思う。

今を大事に。 

 

 

 

京都一人旅。

お題「旅行は…みんなでわいわいVS一人旅 さあ、どっち?…とその理由」

 

ここ数年、年に一度は一人旅(日帰り含む)をすることにしている。

 

こう話すと「誰にも頼らず一人で行動できるのはすごい」とか「おいしいもの美しいものの感動を誰かと共有したくならないのか」などと言われるが、これらを苦手とするので一人旅に出るのだ。誰かと行くと頼りきりになりそんな自分が嫌になり、一緒に行った人と感性が同じでないことに凹んでしまう。だから、私と真逆の人には一人旅をおすすめしない。

 

直近は去年京都を歩いた。京都国立博物館とその近くの三十三間堂。文字通り京都駅から30度を超える初夏の真昼間に1泊分の荷物を担いで歩いた。満員のバスが何台も自分を追い抜いていく。通りかかったバス停にはたくさんの人が待っていて、「次のバスをお待ちください」のアナウンスに肩を落としていた。そんなのを横目にどんどん歩く。

こんな移動方法、誰かと一緒なら決してやらない。

 

京都国立博物館ではその時日本画雪舟の企画展があり私の好きな画家若冲の作品も展示されていた。興味ある作品はガラス間近から、時には遠く引いた位置からじっくり眺める。遠くから見るとまた近くで詳細を見たくなる。あまり心惹かれない作品は、一定のスピードで進む人の列を脇の隙間からすり抜けて次の作品へショートカットする。1泊分の荷物を抱えたまま出口までたどり着いた時には2時間が過ぎていた。場所を移動して三十三間堂。こちらも「推し仏像」の前で立ち止まり、そうでないところは素通りし。

こんな見方、誰かと一緒なら決してやらない。

 

12時過ぎに京都に着いたのだが、時計は3時近くを指していた。「お昼を食べなきゃな」と思った。本当は新幹線乗り継ぎの時ホームで駅弁を買って富士山を見たあたりから食べる予定だったのだが、遅延で出発ギリギリに新幹線に駆けこむことになり空腹のまま京都を歩いていたのである。2時間後には大阪で人と待ち合わせをしていたので、あちこち探し歩いたり、行列に並んでる暇はない。それでもせっかくだから京都らしいものがいいと、地下鉄駅に向かう途中にあった古民家に作られた甘味処でクリームあんみつを食べた。

こんな食事のとり方、誰かと一緒なら決してやらない。

 

この日京都での滞在時間は3時間半。あわただしいようではあるが、見たかったものはたっぷり見たし、食べたかったものも食べられたので不満は一切ない。見たいと思わないものは見てないし、食べたいと思わなかったものは食べてないのだ。あれから半年以上経つが、誰かと会話をしていない分、雪舟若冲の作品を見た感動も、三十三間堂の仏像の迫力も、あんみつと一緒に出されたほうじ茶のやさしい香りも、大阪へ向かう電車の中でゆっくり反芻してあとは全部自分の中に閉じ込めたままだ。

 

ちなみに、大阪で実弟と待ち合わせた後は彼のおごりで串揚げとハイボールをたらふく胃に入れ、互いの最近の話、両親のこと、仕事のこと、3時間近く喋りまくった。

 

ひとりでいること、誰かといること、バランスが大事である。

 

酒と名前とダンナと私

お題「夫婦(カップル)の馴れ初めを教えて下さい。参考にしますので(笑)」

注:数十年前のことなので、今とは違う緩い時代のお話という大前提でお読みください

 

 

 

 

田舎町の小さな繁華街に深夜私の名前が響き渡っていた、らしい。

 

その日とある大学のとある学部で2年生主催による新入生歓迎コンパなるものが開かれていた。まだまだ田舎の大学にも熾烈な受験戦争が存在していた時代、新入生は解放感にあふれ、2年生はただただ酒を飲む機会が欲しかっただけ。スマートなお酒の飲み方なんてできるわけもなく、初めての顔ぶれに多少の緊張感もあったスタートから2時間後居酒屋から出る頃には半分くらいの学生はフラフラで自分の靴も上手く履けないでいた。どうやら母方の血筋でアルコールに強かったらしい私は、くだをまく男どもに下駄箱の前でせっせと靴を並べ、2次会はパスして少々呆れ気味に駅へ向かった。

 

翌日大学に行くと「昨日〇〇くんたちったら、あなたの名前叫んで大変だったんだからー」と2次会まで参加したクラスメイトから報告を受けた。

 

私が揃えた靴を履き、深夜のアーケードで私の名前を連呼していた男どものうちの一人が今のダンナである。

 

その歓迎会をきっかけに男女4人くらいずつで行動を共にするようになった。グループ内で惚れた腫れたくっついた別れたを繰り返していたので、当時少し前に流行っていたドラマから「あすなろ会」とまわりからこっそり呼ばれていたらしい。

 

共に行動するうちに互いのあれこれを知ることになる。家(ともに実家暮らし)が徒歩数分の距離にあること、それぞれの弟妹が同じクラス同じ部活であったこと、ゆえに両親同士がすでに知り合いであったこと、共通の趣味があること。それでも当時グループ内にそれぞれ片思い相手がいたので、「男女の友情ってありうるよね」ぐらいの関係だった。いわゆる「付き合う」に発展したのは卒業迫った大学4年の夏。互いの相手に振られたタイミングが重なって単に一緒にいる時間が増えたからかも。「いやぁ、きみらは付き合うべきだと思ってたんだよ」としんみり言った主は私の片思い相手。おい。

 

結婚を控えたある日、妹から私がダンナと出会う数年前最終的には断ったのだがダンナの弟から告白されたという話を聞いた。血は争えない。結婚式当日親族紹介で顔を合わせた時には「俺とお前が義兄弟になるとはな」と言われたらしい。彼らの方が強エピソードだ。

 

そんなこんなで時は流れ、今年銀婚式を迎える。

子供を持ってからは私は「母親」であり、名前を呼ばれたことは一度もない。あの日繁華街に響き渡ったダンナが呼ぶ私の名前。聞いてみたかった気がする。

 

 

1月3日

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」

 

さっそくお題をいただいての投稿。まさしくこのブログを始めたきっかけが去年の自分を反省し理想の今年の自分にむかっていくためで。

 

2024年1月3日、飲んで食べてダラダラと過ごしていた正月休み最終日、私は翌日の仕事始めに向けて意識を社会に戻すため朝から外に出ていた。特にほしいものはなかったけれど初売りでにぎわうショッピングセンターやスーパーを回って「あぁ、世の中には休みなく働いている人がいる、私も明日からは社会に戻っていかなければ」などと思っていたのだが、数日の怠惰な生活を身体がまだ欲してたこと、飲んでいた薬の副作用で気分の落ち込みが酷かったこともあって、早々にファストフードで温かいカフェオレを手に力尽きていた。

2階のゆったりとしたスペースは真冬の午後の穏やかな光が差し込んで、注文カウンターのあるちょっと日陰で騒々しい1階とは別世界のようだった。家族で過ごしただろう元旦2日を経て今日は気の合う友達とコーヒーを片手に近況報告をしてるのだろうか、にぎやかだけどゆっくりとした時間が流れていた。

なんとなくスマホを手に取ってSNSやネットニュースをスクロールする。別に情報を得たいとか、誰かに連絡するとかではなくてただただ文字の羅列が動いていくのを見送る。私にはこういう時一緒にソファに沈み込んでコーヒーを飲んでくれる友人がいない。

時々小さなため息をついてカフェオレを口に含んではスマホの文字に目を落とす。正月休みで社会の動き自体がスローテンポなので、やがて更新ボタンを押しても文字の配列は変わらなくなってしまった。

また一つ小さくため息をついた時、家族以外ほぼ動かないLINEの通知が飛び込んできた。3年前まで働いていた職場の先輩からの「久しぶり。元気?」のメッセージ。急に私の時間が動き出した気がして少し手を震わせながら文字を打ち始めた。「あけましておめでとうございます」のメッセージのあとは、今の職場で仕事も人間関係もうまくいってないこと、推してたアイドルが卒業してしまったこと、今たった一人でファストフードに長居してること。若い世代は数文字の単語ですら略して送り合うというのに、スマホ画面を埋め尽くすほどの長文、今見ると年始早々こんなのを返信された先輩に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それでも先輩は私の話に反応してくれた上で、以前私がお世話になった上司の話、お孫さんの成長の話、最近の推しの話、いろんなことをまた長文で送ってくれた。一気に3年前昼休みの時間が足りないほど喋りまくっていたあの頃にタイムスリップした気がした。そのあとは1時間ほど文字でのやりとりを繰り返して時間足りないね、一緒にごはん食べに行こう!と約束してLINEを終えた。

 

私に足りなかったものはこれだったのか、と思った。その後先輩とは初夏にやっと一緒にご飯に行くことができた。その時はもう一人の大変おしゃべりな先輩も一緒で彼女の愚痴と自慢話を聞くことに終始して相槌を打つだけの時間だったけど、それでも楽しかったし充実した時間だと思えた。誰かと繋がっていることってこんなに心強いことなのか。その後職場には異動を申し出た。給料は上がらないけど自分と近い世代・立場の人がいて仕事量も少し余裕ができた。私の心も少しずつ回復して今こうしてブログを立ち上げるなど新しいことを始めてみようという気持ちも出てきた。

 

2025年1月3日。あれからちょうど一年。今年はこちらから「あけましておめでとう」のLINEをしよう。時間ができたら一緒にごはんを食べよう。先輩だけでなく、新しく思いをやり取りできる人を見つけよう。